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鳥取地方裁判所米子支部 昭和32年(ワ)61号 判決

原告 木村潔躬

被告 国

代理人 村重慶一 外一名

主文

被告は原告に対し金一三〇万円及びこれに対する昭和三二年七月一三日から右支払済まで年五分の割合による金員を支払え。原告のその余の請求を棄却する。

訴訟費用はこれを二分し、その一を原告、その余を被告の負担とする。

この判決は第一項に限り仮に執行することができる。

事実

(請求の趣旨)(省略)

(請求の原因)

一、原告は、昭和二四年九月四日何者かにより原告の妻辰子が殺害され、娘潤子が傷害をうけた事件の嫌疑をうけ、昭和二六年一二月一日逮捕、引続き米子地区警察署留置場において勾留された。

二、右起訴前の勾留期間中、原告は右留置場で鳥取地方検察庁検察官検事中根寿雄から連日取調をうけたが、その取調時間は別表のとおりで、夜から翌朝にかけての不寝尋問が五回(うち二回は連続九時間以上)にも及ぶものであつた。このような不法な取調方法のもとに、中根検事から自白を誘導、強要されたので、原告は心身に極度の疲弊をきたし、犯行を否認し続ける気力を失い、同月一一日ついに虚偽の自白をするに至り、右自白に基づいて、同月二三日原告は中根検事によつて別紙公訴事実につき鳥取地方裁判所米子支部に起訴され、昭和二八年三月一九日に保釈されるまで引続き勾留された。しかし、右裁判所において昭和二九年六月二八日に原告に対し無罪の判決が言渡され、右判決は同年七月一三日に確定した。

三、原告は、中根検事の右一種の拷問というべき不法取調により虚偽の自白をさせられ、これに基づいて、右のとおり不法に起訴されるとともにこれに伴う長期間の身柄の拘束をうけ、また、右起訴の前後を通じ、事件内容が全国の新聞雑誌に掲載されるという不利益をも被り、その結果次の如き物心両面の損害をうけた。

(一)、(二)、(三)、(四)、(五)(省略)

四、(省略)

(請求の趣旨に対する被告の答弁)

(省略)

一、(省略)

二、同第二項について

(一)  原告主張のとおり、起訴前の勾留期間中、鳥取地方検察庁検事中根寿雄が担当検事として原告に対する取調をなしたこと、昭和二六年一二月一一日原告が中根検事に対し犯行を自白したこと、同月二三日原告が殺人、傷害の各罪で鳥取地方裁判所米子支部に起訴され、昭和二八年三月一九日原告が保釈されるまで引続き勾留されたこと、昭和二九年六月二八日右裁判所支部で無罪判決が言渡され、同年七月一三日右判決が確定したことはいずれも認めるが、中根検事が不法な取調により原告に自白を強要、誘導したとの点は否認する。

(二)  中根検事の原告に対する取調のための出監及び入監の時刻が原告主張のとおりであるとしても、その間がすべて原告を取調べるために使われたわけではなく、畳敷の調室で原告が中根検事と茶を飲んだり雑談したり或いは横になつて休んだ時間も含まれている。又、右取調のうち翌朝までにわたつたものが二回あつたとしても、うち一回は原告自身から取調を続行するよう要望があつたためであり、いずれの場合にも、取調後睡眠のため十分な休息時間が与えられている。又、取調が一日三ないし五回にわたつたとしても、そのため直ちに取調が不法になるものではないし、むしろ、これは原告に休息を与えながら取調をなしたことを示しているのである。

(三)  原告は昭和二六年一二月一一日中根検事から原告の犯行を裏付ける資料に基づきその供述の不合理な点を追及された結果自発的に犯行の一切を自白したものである。

三、同第三項について

(一)  原告が逮捕、勾留、起訴されたのは次の事由に基づくものであつて、いずれも適法である。即ち

1 逮捕、勾留

本件殺傷事件発生直後、捜査官が原告及びその長女木村潤子から当時の模様を聴取したところでは、原告に対する嫌疑は浮ばず、右事件は一時迷宮入りを思わせたが昭和二六年一一月頃にいたり、事件当夜の原告の行動について当時の原告の供述と異る事実が判明し、原告に対する嫌疑が濃厚となり引続き捜査した結果、

(1) 木村辰子の傷害がきわめて重いにかかわらず、原告及び木村潤子の傷害が軽微であること。

(2) 辰子及び潤子の寝床の上に吊つてあつた蚊帳の原告寝室側外部に犯人が立つて電池を照らして上下に動かしていたこと。

(3) 右の犯人が立つていた畳上に相当量の血痕が付着していたこと。

(4) 原告が救いを求めようとして屋外へ出るさい通つたと申立てる被害者両名の寝室の足許の側に血痕が付着していなかつたこと。

(5) 原告は、犯罪発生後屋外に立ち、妻の重態の事実を聞きながら、何ら看護の処置をとらなかつたこと。

(6) 犯人が非常に落着いた態度で兇行に及んだこと。

(7) 原告が警察官に対する犯行後の取調に曖昧な供述をなしていること。

以上、七点の事実が医師の診断書、現場写真、木村潤子の供述及び原告自身の供述等の資料によつて認められるにいたつたので、これを原告が本件犯罪を犯したことを疑うに足りる相当の理由として、昭和二六年一一月三〇日米子地方裁判所裁判官に原告に対する逮捕状を請求し、右逮捕状の発付を得て同年一二月一日原告を適法に逮捕したものである。そして右逮捕に引続き、同月五日右裁判所支部裁判官の発した勾留状により原告を適法に勾留した。

2 起訴

右逮捕、勾留の期間、検察官及び警察官が原告を取調べたところ、原告は、前記殺傷事件が自己の犯行であることを任意に自白した。そこで、検察官は右自白と次の証拠によつて認められる諸事実を綜合して、右殺傷事件が原告の犯行によるものと認定し、別紙公訴事実につき昭和二六年一二月二三日鳥取地方裁判所米子支部へ原告を起訴したもので、もとより右起訴は適法である。

(1) 原告が逢坂小学校長に就任後同校教員藤川幸世と特殊な関係になつたことから妻辰子のヒステリーが昂じ夫婦仲が不仲であつたこと(木村潤子、高見捨見、植田昇の供述)。

(2) 犯行前頃原告は妻辰子と激しい夫婦喧嘩をして焦燥していたこと(木村潤子の供述)。

(3) 犯行の前夜原告が逢坂小学校において右藤川幸世と打合わせたうえ同女方附近で密会したこと(藤川幸世の供述)。

(4) 犯行前夜の原告の行動が普段と変つていたこと(豊島とめ、谷川ひさ、国井誠一、田中勲、永見重雄、新開保次の各供述)。

(5) 木村辰子が外部の者から殺害される原因が見当らないこと(長田鶴江、谷川てる子、豊島とめの各供述)。

(6) 犯行当夜原告方居宅は東側四畳半の間の雨戸が二ヵ所あけてあつた以外は厳重な戸締りがしてあり、右雨戸があけてあつた箇所は外部からの侵入及び逃走口として不自然な状況で、その附近に犯人の侵入、逃走によつて生じる足跡その他の異常が認められなかつたこと(現場写真)。

(7) 屋内に金品物色のあとが少しもなかつたこと(同右)。

(8) 犯行当時原告方で飼つていた番犬が吠えなかつたこと(木村教晃の供述)。

(9) 木村辰子及び潤子が寝ていた蚊帳の外に立つていた犯人の人相、年令及び服装が原告のそれに酷似していたこと(木村潤子の供述)。

(10) 犯人の所持していた懐中電灯が当時原告方にあつたそれに酷似していたこと(同右)。

(11) 原告が辰子及び潤子両名の寝室をうかがいその蚊帳の中に入つた形跡があること。

(12) 原告の傷は辰子及び潤子の傷と異り、他為的の攻撃によつて生じたものではないこと。

(13) 原告には剣道の心得があつたこと。

(14) 犯行直後原告の態度がきわめて不自然であつたこと(天島清治、木村潤子、木村教晃、高見捨見、植田晃、田中勲の各供述)。

(15) 原告が犯行直後自宅を飛出してから妻辰子の重態を知りながら全くよそごとの如くにしてその安否や生死を意にかけていなかつたこと(谷川てる子、豊島とめ、天島清治、田中勲の各供述)。

(16) 犯行直後潤子が原告に対しいたく憤激していたこと(岡本比農夫、馬淵素佳子、豊島とめの各供述)。

(17) 原告は事件後他の者に対し「自分の家庭が円満であつたように捜査官に証言して貰いたい」旨依頼していること(長田鶴江の供述)。

(18) 原告が犯人の捜査につき非協力的態度に出て犯人の検挙をおそれていたこと(長田鶴江、馬淵素佳子の供述)。

(19) 原告が本件発生当時の模様につき供述することがきわめて不合理で一貫性がなかつたこと(永見重雄、豊島とめの各供述)。

(二)  仮に第三項記載の損害について被告に賠償義務があるとしても、右損害額の算定根拠はすべて争う。

(抗弁)

原告は、原告に対する殺人、傷害被告事件について無罪判決の言渡を受けた昭和二九年六月二八日までには原告主張の不法行為の加害者及び損害を知つていたものであるが、本訴を提起したのはその時から三年を経過した後である昭和三二年七月四日であるから、すでに消滅時効が完成しており、被告は右消滅時効を援用する。

仮に時効の起算点が右の時点より後であるとしても、請求拡張部分については、拡張の時期が昭和三五年八月二六日であるから、消滅時効が完成していることは疑いない。

(証拠)(省略)

理由

第一、当事者間に争いのない事実

昭和二四年九月四日何者かによつて原告の妻辰子が殺害され、娘潤子が傷害をうけた事件につき、原告が犯人の嫌疑をうけ、昭和二六年一二月一日に米子地区警察署職員の手で逮捕状により、逮捕されたのに引続き、米子地区警察署留置場において勾留されたこと、その間原告は、主として鳥取地方検察庁検察官検事中根寿雄の取調べをうけ、同月二三日同検事によつて殺人、傷害の別紙公訴事実のもとに鳥取地方裁判所米子支部へ勾留のまま起訴されたこと、そして、昭和二八年三月一九日に保釈されるまで引続き勾留されたこと、同裁判所支部における審理の結果、原告は昭和二九年六月二八日無罪の判決をうけ、右判決は同年七月一三日に確定したこと、以上の事実は当事者間に争いがない。

第二、原告の本訴請求は、要するに原告に対する右逮捕、勾留及び起訴の各違法を主張し、これによつて蒙つた損害の賠償を国家賠償法第一条に基づいて被告に請求するものであるので、まず、右違法行為の主張について判断する。

一、逮捕、勾留について。

(一)  (証拠省略)によると、昭和二六年一一月三〇日米子地区警察署司法警察員谷口栄が鳥取地方裁判所米子支部裁判官宛に原告に対する逮捕状発付を請求したことと、右請求書には、被疑事実の要旨として、「被疑者は昭和二四年九月四日午前三時過頃西伯郡逢坂村逢坂小学校裏自宅において日本刀をもつて妻辰子の頭部顔面を斬付けて殺害し、さらに長女潤子の頭部を斬り割創を与えたものである」旨の記載があり、原告が右の犯罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由として、被告主張の如き七点の事実を掲げ、それぞれの事実に対する資料として、被告主張(1)の事実につき、医師馬淵晴彦の診断書(証拠省略)、(2)の事実につき、木村潤子の検察官に対する第一回供述調書(証拠省略)、(3)の事実につき、現場写真の五(証拠省略)、(4)の事実につき、原告の司法警察員に対する第三回供述調書(証拠省略)、及び現場写真の四(証拠省略)、(5)、(6)の各事実につき、木村潤子の検察官に対する第二、四回供述調書(証拠省略)、(7)の事実につき、原告の司法審察員に対する第一、二、三回供述調書(証拠省略)を挙げていることが明らかである。

逮捕状発布にさいし、裁判官が請求書添付以外の資料を取調べることも稀ではないが、被告はこの点について何ら主張立証しないから、原告に対する本件逮捕状は右請求書挙示の資料に基づいて発布されたものとみなし、右資料から逮捕状記載の七点の事実その他原告が前記犯罪を犯したことを疑うに足りる事実を認めることができるか否かを検討する。

(二)  先ず、(1)の点であるが、(証拠省略)によると、本件犯行による原告の受傷は、前頭部右上から右眉内側三分の一のところを通り、鼻尖中央にいたる全長約二二糎の、一部は骨を切断し骨膜に達する切創であつたこと、受傷後の出血は多量で手当にさいし時々意識の混濁がみられたこと、右切創は約三週間で治癒するが、失血による貧血の恢復には数ヶ月を要する見込であつたことが認められ、又、木村潤子の受傷は、左側頭部から左前額生際近くにいたる長さ六糎の切創で、深さは頭蓋骨に達しており、数ヶ所で小動脈が損傷されているため、手当時に脈血が数糎の高さまで噴出し、意識は半睡半覚状態であつたこと、右切創は約二週間で治癒するが、失血による貧血の恢復はに一、二ヶ月を要する見込であつたことが認められる。従つて、原告と潤子の右各創傷は、(評拠省略)記載の辰子の創傷と比較すれば格別、創傷自体をみればかなりの重傷であることが明らかである。次に(証拠省略)によれば、辰子が三人のうち特に重傷を負い、これに対比し潤子の傷が最も軽かつたのは、犯人が潤子に切りつけた時、辰子がその物音を耳にして目を覚し、「今のは何の音だつたか」といいながら、上半身を起こしたため、狼狽した犯人から二度にわたつて切りつけられたのに対し、潤子は、犯人に切りつけられる直前に着ていた丹前を髪の生え際まで引き被つたことによるものと考える余地もあり、必ずしも犯人において意図して辰子に重傷を負わせ潤子に軽傷を負わせたものとは断じ得ない。

次に、(2)の点については、(証拠省略)によりその事実が認められるけれども、(3)の点については、(証拠省略)(現場写真)によつては、畳上の被告主張の場所に多量の血痕が附着していることを容易に判別することができない。かえつて、(証拠省略)によると、現場写真上、犯人が電池を照らして辰子及び潤子の寝ている蚊帳の内部をうかがつた地点の畳上には血痕が認められなかつたことを推認しうる(同判決(十一)、(1)、)。

(4)の点は(証拠省略)によると、現場写真上、原告が受傷後玄関に出るさい通つた経路上の原告寝室の畳上二ヶ所には一団の血痕があるが、同じ経路上の辰子及び潤子の寝室の畳上には血痕がないことがうかがわれる。そして、(証拠省略)によると、原告は、受傷後しばらくして犯人が日本刀を持つて出口(雨戸)の方へ歩いていくのをみたが、もう一人の犯人が妻や娘に暴行しているものと思い、救いを求めるため、犯人の様子をうかがいつつ走つて妻や娘の寝室を通り抜け戸外へ出たことが認められるので、原告の寝室の血痕は前記刑事判決の判示するように、原告が進行中にその場所においてしばらく停止した事実(犯人の様子をうかがうためか)を示すものであり、他の経路に血痕がないのは走つて通過したことから着衣にしみこんだにとどまり畳に滴下するにいたらなかつたためであると考えることができ、そのように考えても不自然ではない。

(5)の点については、前記のとおり、原告はその受傷の程度が重篤であつたため、妻や娘に対し十分の配慮をするだけの心身の余裕がなく、しかも、自らは妻や娘の受傷の程度を確知していたわけではなかつたので、自分が最も重傷であると考えていた(原告の当公判廷における供述)としてもあながち不自然とはいえないし、且つ、当時、原告としては、既に大声で救いを求め、学校の先生や近隣の人がかけつけてくる状況になつたことではあり、ひとまず妻や娘はその人達にまかせようという気持になつたということも十分考えられるところである。もし、原告が犯人ならば、かように、他人から疑惑の眼を向けられやすい行動をとることなく、むしろ、表面上辰子の介抱に当ろうとする方がより自然であろう。

(6)の点については、逮捕状請求書の挙げている(証拠省略)からは犯人が非常に落ち着いた態度であつたか否かは判然としないが、(証拠省略)によれば潤子がそのような感じをうけたことが認められる。

(7)の点については、(証拠省略)によれば、原告が深夜に突然重傷をうけながらも認識しえた状況については終始一貫して明確に供述していることが認められる。ただ、犯行前夜藤川幸世と密会した事実を秘匿していることは後記の各証拠に照らし明らかであるが、右事実は犯行とは直接何の関係もない事柄であり、又、原告にとつて自己の体面上秘匿を欲する理由のある事柄でもあるから、この点についての曖昧さをとらえて原告の供述全体が曖昧であるかのように評価することは正当でない。

(三)、以上のとおり、前記逮捕状請求書に掲げられた「罪を犯したと疑うに足りる相当な理由」のうち、(1)、(3)、(7)の各点は、その挙示する証拠からは認められない事実を前提としており、又、(2)、(4)、(5)、(6)の点は一応証拠上認めることができるが、いずれも、何ら前に見たようにも考えられるところであつて、これのみでは直ちに原告が前記犯罪を犯したことを推測させるものではない。そして、前記(証拠省略)を仔細に検討しても、到底、原告が右犯罪を犯かしたと疑うに足りる相当な理由を発見することはできないから、結局、原告に対する本件逮捕状の発布は、刑事訴訟法第一九九条所定の要件を具備しないもので、右令状に基づく逮捕行為も又違法たるを免れない。

(四)、次に、勾留の点であるが、被告において、その適法性を立証する証拠として、前記逮捕状請求書挙示の資料と同一の証拠(証拠省略)を挙げていることからみて、裁判官が右勾留の裁判をなすさいに判断の基礎として資料もこれと同一であつたと推認するほかない。そして、右各証拠からは「原告が前記犯罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」を見出せないことは、前記のとおりであるから、右勾留も又違法といわざるをえない。

(五)、以上に認定したところから、右逮捕に関与した警察官及び裁判官、勾留に関与した検察官及び裁判官は、いずれもその職務上の注意義務を著しく怠つた結果、右違法行為をなしたものと認められるから、公権力の行使に当る公務員としてその職務を行うにつき過失があつたものといわねばならない。

二、起訴について

(一)、一般に検察官は、捜査によつて蒐集された証拠により有罪判決が期待しうるという判断に基づいて公訴を提起するのであるが、公訴権の行使が検察官の専権に属するものとされている以上、検察官が右の判断を誤り、無罪を宣告されるべき運命にある事件について起訴したとしても、ただちにその違法の問題を生ずるわけではない。しかし、無実の者を起訴するということは、結局において無罪判決をうけたとしても、その者をして一旦は有罪判決をうけるかもしれない危険にさらし、かつ、実際問題として、その者の社会的評価を大きく低下させ、回復不能の不利益を蒙らせることになることは周知の事実であるから、結果として、無罪の確定判決を得た者に対する起訴については起訴のさいにおける検察官の有罪判決の見込判断を事後的に審査し、これが合理的根拠に基づかないものと認められるときは、右起訴は裁量の範囲を逸脱したものとして違法と評価さるべきものといわねばならない。

本件においては、被告の主張によれば、中根検事は原告の自白調書(証拠省略)とその他の諸証拠(証拠省略)によつて認められる間接事実を総合して、原告を犯人と認定し、起訴したのであるから、右資料がはたして検察官として、原告に対する有罪判決を期待する合理的な根拠たるのか否かが問題である。そこで、右原告の自白調書及びその他の諸証拠についてそれぞれ右の点を検討する。

(二)、(証拠省略)によると、原告に対する起訴前の逮捕、勾留期間中の取調べは、昭和二六年一二月一日から同月一二日までは米子地区警察署において、中根検事及びその指揮のもとに同警察署刑事部長山口正男、同刑事係長谷口栄等によつて行なわれたことが認められる。そして、右取調べの時間の関係は、(証拠省略)(留置場日誌)及び同じく(証拠省略)(取調時間一覧表)により、別紙一覧表のとおりであることが明らかである。これによると、昭和二六年一二月三日から同月一一日(最後の取調は一二日かかつている)までの九日間の取調時間合計は八〇時間三五分に及び、一日当り実に九時間弱であり、しかも、午前六時から午後五時までの昼間の取調時間合計が二九時間三五分であるのに対し、午後五時以降午前六時までの夜間の取調時間が五一時間である。そして、一回の取調時間をみても、一二月三日から四日にかけての取調と同月九日から一〇日にかけての取調がいずれも連続九時間を超えており、その他五時間を超えるものが三回、四時間を超えるものが二回あつて、この長時間にわたる取調の殆んどは深夜に行われたものである。被告は早朝まで取調べたうちの一回は原告の希望によるものだと主張し、(証拠省略)右主張にそう部分があるが、原告本人尋問の結果によれば、原告が本心からそのようなことを述べたことはないことが認められ、又、被告は、夜遅くまで取調べがなされた後には原告に睡眠のための十分な休息時間が与えられている旨主張するが一般に人間は夜間に睡眠休息をとり、昼間に活動する生理構造になつているのであるから、昼間に休息時間を与えられても十分睡眠をとれないのが普通で、現に、(証拠省略)によれば、原告は取調と取調の間は大低寝床に入つていたが、大して眠れなかつたことがうかがわれる。

(証拠省略)によると原告は取調の始めのうちは強く犯行を否定していたが、昭和二六年一二月一一日午後一〇時前後に中根検事に対し始めて犯行を自白したことが認められる。これは取調開始後九日目で、原告の心身の疲労が限界に近くなつていた時期と考えられ、そのうえ、右の日は別表のとおり午前一〇時過ぎから午後六時二〇分までの間に、途中短時間の休憩二回をはさんで三回にわたり計六時間三五分の取調をうけたので、原告としては、午後八時三五分から第四回目の取調をうける頃には心身ともに疲労しきつていたものと推察される。このことは、(証拠省略)(留置場日誌)の一二月一一日の欄に午後六時二〇分第三回の取調を終つて留置場へ戻つてからの原告の様子につき、「午後六時二五分夕食に取付くも顔色なく一見病人の如し」、「六時四〇分寝床を敷く前に(原告が)“ここにも就寝時間が決めてありますか”と尋ねた」、「すべての動作に力なく全く病人の如し」、「寝床に入つても寝つかれない模様で…………」等の記載があることからもうかがいうるところである。そして、午後八時三五分からの第四回目の取調において、原告はもはや取調官の厳しい質問に対抗して否認し続ける気力を失い、その意に反して原告のいう「虚偽の」自白をなすにいたつたものと考えられる。

ところで(証拠省略)その他弁論の全趣旨によると辰子、潤子及び原告に対する本件殺傷事件は、客観的事実そのものはむしろ簡単な出来事である。このような事実について、否認し続ける原告に対し総計八〇時間余にわたる取調が行われたということ自体、同一の事項についての追及がきわめて執拗に繰り返されたことを物語るもので、まさに自白の強要が行われたことを推測せざるをえない。そして、このことは原告本人尋問の結果からも明らかであり、又、取調中、原告が中根検事に対し「犯人になつてみたい、刀さえあれば犯人になつてみたい」と口走つた事実があり、取調が夜遅くなつた一つの場合は、原告が取調官の質問に対し一言も返答しないときであつたこと(証拠省略)、取調中に原告が錯乱状態になつて取調を中断せざるをえないことが何回かあつたこと(証拠省略)から、原告に対する取調官の追及が著しく苛烈であつたことをうかがうに足りる。さらに自白後の原告の挙動について、前記留置場日誌の一二月一二日欄に「午後四時過ぎに原告が看守の巡査に対し、“自白して重い荷を降したような気がする。自由といつても現に追詰められて仕方なしのようなもので、自分の気持としては一一日間の取調の苦痛から免れるものであつた。自分が最高刑に処せられても知るべき人は知つてくれると思うからそのときを待つのみである。”と語つた後、“このことは誰にも聞かれてはいけないから誰にも話して下さるなよ”と小声で看守の耳許にささやき、とくに最後の口止めについては強く強く強調して何か外部を警戒しつつ語るようであり、又絶対に人に聞かれては困るから哀願するといつたいい方であつた。」旨の記載があることからも、自白当時の原告の圧迫された心理状態を十分に推測できる。

以上において認定したところを総合すると、前記の長時間かつ夜間にわたる取調は取調官においてその効果を狙つた故意的なものではないであろうが、客観的にみれば、右の執拗苛烈な尋問の仕方と相まち、原告の心理上、大きな圧力となつたもので、これが原告をしてその意に反して自白をさせるにいたつたものと認められる。従つてかようにして得られた原告の自白は、まさに刑事訴訟法第三一九条第一項にいう強制による自白として任意性がないものと断ぜざるをえない。原告の右自白を録取した調書のうち、検察官調書(証拠省略)は中根検事自身の作成にかかるものであるから勿論、警察官調書(証拠省略)も録取の前提たる取調が中根検事のそれと同一機会にその指揮下になされたものであること前記のとおりであるから、同検事としては、右自白調書が法律上許容されないことを当然認識しえたのであり、これらを原告に対する起訴の判断資料から除外すべきであつた。従つて、本件起訴の適否は、原告の自白調書を除外した残りの証拠から判断されなければならない。

(三)、(証拠省略)を総合すると、次の事実を認めることができる。即ち、原告は、昭和二二年四月から西伯郡逢坂村逢坂小学校長の職に在つて、右学校校舎裏の官舎に妻辰子(明治四二年一〇月一〇日生)及び長女潤子(昭和二年三月四日生)と共に居住していたこと、原告の夫婦の仲は、辰子のヒステリー症のため従来から必ずしも円満ではなかつたが、原告が昭和二四年五月頃から前記小学校の女教諭藤川幸世(大正一〇年一月二日生)と情交関係を結ぶようになり、これが辰子の感付くところとなつた同年七、八月頃に辰子のヒステリー症が最も嵩じたこと、その症状はまず顔色が青くなり目が血走り、物音を高くしたり同じ事を繰り返したり、以前のことを何回も持ち出して口にしたりした後黙つてしまうというもので、辰子がこのような状態になると、原告は口論をするがしばらくすると家を出て学校や風呂などへ行き、遅く帰宅するのが常であつたこと、辰子のヒステリーの症状が二、三日で治まると、家庭内は潤子の努力などで平穏になつていたこと、同年九月三日午後六時半頃右小学校の教員達の懇親会が終つたさい、原告は前記藤川幸世に対し藤川宅附近での密会の約束をしたこと、同日原告は自宅で夕食を済ませた後、午後七時過ぎ頃いつものように同じ部落の谷川均方へ風呂を貰いに行き、午後八時頃藤川方前で同女と会い抱擁接吻し、帰途、果物店で西瓜を買い求めようとしたり、碁会所で碁を見物したりして、午後一〇時過ぎに帰宅したこと、原告宅では犬を一匹飼つていたが、夜間は鎖から離しておく習慣で、その夜午後九時半頃潤子が自宅附近で犬の名を呼んだときは出てこなかつたこと、原告ら三人は西瓜を食べて午後一一時頃いつものとおり、六畳の間に辰子と潤子が、奥の四畳半に原告がそれぞれ蚊帳を吊つて就寝したこと、翌四日午前三時頃原告は四畳半の南側の雨戸を開けて外へ出、小便をしたが、これは原告の常日頃からの癖であつたこと、屋内に入るとき、暑いような気がしたため、二枚の雨戸のうち一枚を半分位戸袋に入れ、もう一枚を真中まで引いたままにして再び寝入つたこと、(原告の受傷時の模様はしばらく措き)午前四時頃潤子は、家の中がどんどんという音とともに揺れるように感じて目を覚ましたところ、四畳半側の蚊帳の外に男が一人立つて懐中電灯を腰の高さ位にして上下に動かしていたので、最初原告が地震を知らせに来たものと思つたが、その男が黙つたまま電池を動かしているので、それが父ではなく、他人が自分や母の様子を探りにきているのだと直感し、そのうち男が蚊帳の中に入ろうとする気配を感じて恐ろしくなり、着ていた丹前を髪の生え際あたりまで引き上げて被つたままじつとしていると、間もなく足許の方から頭を薄い板のようなもので叩かれたように感じたこと、すると、隣で寝ていた辰子が「今の音は何だろうか」といいながら起き上ろうとしたため、犯人があわてて辰子に斬りつけたこと、原告は台所の引戸のガラスを手で突き破り、戸をはずして外へ走り出、前記小学校宿直室で宿直中の田中勲、高見捨見、小西教晃、青木某の四教諭を起こし、「どろぼうが入つた。賊は日本刀をもつた二人だ。家内が猿ぐつわをはめられている。家内を頼む」と言い、なお、附近で大声で「強盗、々々」と連呼していたこと、そこで、右田中勲は原告の声でかけつけた近所の天島清治とともに原告宅へ向つたこと、一方、潤子は、屋外から聞えてきた原告の救いを求める声で犯人が逃げたことを知り、辰子の頭を膝にのせてその傷口を押えていたところ、田中勲らがかけつけたので、電灯をつけてもらい、傷口を調べ、同人らに医者の手筈を頼んだこと、その後、タオル等で、辰子の傷口の手当をしているうち、辰子が余りしやべらないようになり、潤子自身も、次第に苦しくなつて倒れ、這つて辰子の許へ戻り、辰子の体を抱いていたこと、原告宅を出た田中は校舎附近に立つていた原告を天島に委し、近くにある馬淵病院へ行きかけたが、途中で気が変り先に駐在所の巡査に事件を知らせてから右病院へ行き、天島は原告が重傷を負つているのを見て午前四時半頃原告を右馬淵病院へ連れて行つたこと、病院で原告と出会つた田中は原告から「家内を頼む」といわれ、事実辰子の方が重態であると思つたので、馬淵医師に原告宅への来診を頼んだが、同医師は原告の傷をみてその手当を先にしたこと、そうするうち、午前五時頃、原告宅へかけつけた人達が辰子を担架に乗せ、潤子を背負つて病院へやつて来たこと、潤子は病院に着いた頃は受傷のため発揚状態にあつて、長椅子に横たわつていた原告をみるや「父ちやんの馬鹿、々々」と叫んだが、これは、当時潤子が原告の受傷の事実を知らず、原告が事件直後真先に外へ飛び出しながら、一度も家へ帰つて辰子や自分を見なかつたため、かなりの時間潤子が重傷の辰子と二人きりで放置されたと感じたことによる腹立ちからのものであること、馬淵医院において原告は辰子や潤子の容態を他人に尋ねなかつたこと、辰子死亡の事実は周囲の者の心遣いで原告にはかなりの期間秘匿されていたこと、事件後の調査では原告宅内に金品物色のあとがなかつたこと、原告一家が他から恨みをうける原因がないこと、以上の事実を認めることができる。

右認定事実は被告が前記(証拠省略)から認定できると主張する事実の大半を包含するが、右主張事実中には右認定に反し、或いはこれに包含されない事実もあるので、以下これらについて検討する。先ず、原告宅四畳半の間の雨戸が二ヶ所において開いていた部分は外部からの侵入口及び内部からの逃走口として不自然であり、かつ、その附近や屋内に犯人の侵入逃走により生じた足跡等の異常が認められなかつた旨の主張についてであるが、前記(証拠省略)によると、右雨戸部分は、畠に面していることが認められるのであり、その他、被告の挙示する(証拠省略)の現場写真によるも、そこが何故に侵入口、逃走口として不自然なのか理解することができないし、又、足跡については、被告の主張通りその痕跡が認められなかつたとしても、地面や床板の状態や履物如何によつては足跡のつかないこともありうると考えられ、犯人が落ち着いていたことから履物を脱いで入つたことも考えられないのではない。次に、犯行前夜の原告の行動が普通と変つており又、次に、犯行直後の態度も極めて不自然であつた旨の主張についてであるが、被告が右主張に対応する証拠として挙示する(証拠省略)を仔細に検討しても、事件前後の行動や態度で何ら変つた点、不自然な点を見出すことができない。ただ(証拠省略)の永見重雄の検察事務官に対する第一回供述調書中に「九月三日夜碁会所に今まできたこともない原告が見にきていたのでどうしたことかと思つた」旨の供述があるけれども、(証拠省略)の新開保治の検察事務官に対する第一回供述調書によれば原告はそれまでにも一、二回碁を見にきたことが認められるから右供述は採用できない。なお、右以外の(証拠省略)には、特に事件後の原告の態度が不自然であつた旨の供述を含むものがあるが、これらはいずれも、原告が逮捕された後の供述で、新聞等の報道による影響が多分にみられるもので、中には取調官の誘導の結果と思われるものもあり、その大半は「原告が犯人だとすると思い当たる節がある」といつた供述であるから、到底採用に値いしない。次に、原告が、事件後自宅をとび出してから辰子の重態の事実を知りながら全くよそごとの如くにしてその安否、生死を意にかけなかつた旨の主張であるが、原告が最初田中勲らに助けを求めたさい及び天島清治につれられて馬淵病院へ行つたさいに「家内を頼む」と言つていたことは前記認定のとおりであるから、辰子の安否を全く意にかけていなかつたというのは当らない。ただ、原告が病院においては辰子に一言も言葉をかけず、その後の入院期間中も全然病院の者に辰子の事を尋ねなかつたことは(証拠省略)によつて認められるが、前記第二、一、(二)認定のとおり受傷直後は原告において辰子の受傷の程度を知らず、自分が最も重傷だと思つていたということも十分ありうることであり、事実原告の傷も相当重かつたため、他への細かい配慮をする余裕がなかつたことが考えられる。又、辰子の死の事実は原告も程なく知つたと思われ(証拠省略)、周囲がこれを秘そうとしていることも感知した筈と考えられるから、周囲に対し辰子のことを一度も尋ねなかつたとしても特に異とすべきこととは思われない。又、右のような原告の態度は第三者の眼からは不人情、冷酷と評価される余地がないとはいえないが、妻子に対する愛情の多寡やその表現の仕方は人によつて異なるものであることは(証拠省略)の刑事判決(十四項)のいうとおりであるから、この点も問題とするに足りない。次に、辰子及び潤子が寝ていた蚊帳の外に立つていた犯人の人相、年令及び服装が原告のそれに酷似していたとの主張についてであるが、被告の挙示する木村潤子の検察官に対する各供述調書(証拠省略)中には、「蚊帳の外に立つている男を、最初、父かと思つた」旨の供述があるけれども、当夜原告宅では原告と辰子と潤子の三人が就寝したのであるから、原告の寝間の方からきた男の姿を暗闇の中でみれば、潤子としては一瞬それを原告かと思うのは当然であり、しかも右供述調書によると、潤子は、直ぐにその男が原告ではないことが判つて恐くなり丹前を引き被つた、その男の年令は四〇才過ぎで、背が原告より少し高いように思つたというのであつて、被告の右主張の事実は認めることができない。次に、原告が辰子及び潤子の寝室をうかがいその蚊帳の中に入つた形跡があるとの主張についてであるが、前記認定のとおり、犯人が右主張のような行動をとつたことは認められるけれども、その男が原告であるという証拠はない。次に、犯人の所持していた懐中電灯が当時原告方にあつたそれに酷似していた旨の主張についてであるが、木村潤子の前記供述調書(証拠省略)によつて認められるのは、犯人の持つていた懐中電灯が棒状のものであつたことと、事件後の警察の捜査で原告宅から棒電池が一本発見されたことだけである。そして、(証拠省略)の刑事判決によると、右棒電池は右刑事事件において証拠として、提出されなかつたことが明らかであるから、右の発見された棒電池は、何らかの理由で犯人の使用したものでないことが明らかであつたか少なくとも両者の同一性に重大な疑問があつたものと考えるほかない。他に被告の右主張事実を認めるに足る証拠はない。次に、原告の傷が辰子や潤子の傷と異り、他為的の攻撃によつて生じたものでないとの主張についてであるが、(証拠省略)その他被告提出の(証拠省略)中これを認めるるに足りる証拠は全くない。(証拠省略)の刑事判決によると、右刑事公判手続で、原告の創傷が自傷である旨の鑑定もなされたことは認められるが、これはもとより起訴の適否の判定資料とはなしえない。なお、(証拠省略)その他弁論の全趣旨によつて認められる原告の受けた創傷の部位、程度に徴すると、右刑事判決の判示するとおり、これを自傷とすることには常識上不自然、不合理な感のあるのを免れない。次に、原告に剣道の心得があつた旨の主張についてであるが、前記乙号各証中これを認めるに足る証拠はなく、かりにそうだとしても、このことは何等原告と本件犯行を結びつけるに足るものではない。次に、原告が事件後、他の者に対し、自分の家庭が円満であつたと捜査官に証言してもらいたい旨の依頼をしたとの主張であるが、被告の挙示する(証拠省略)その他の(証拠省略)、によるも右の事実を認めることができない。次に、原告が犯人の捜査につき非協力的態度に出て犯人の検挙をおそれていた旨の主張についてであるが、被告の挙示する(証拠省略)によると、事件後長田鶴江が原告に対し「早く犯人が挙がつて安心したいでしよう」と問うたところ、原告が「傷の痛手を受けたうえに心の痛手を早く受けたくない」旨答えた事実が認められる。しかし、(証拠省略)によると、事件後、事件のことが話題にのぼつた折に、原告が「自分の名が出るのが悲しいな」といつていた事実も認められるので、これらを併わせ考えると、当時の原告としては、妻子を殺傷され、自分も重傷をうけて顔面にみにくい傷痕を残す結果となり、悲哀感に陥つていたのに、世間が好奇の眼をもつて自分らのことを好んで話題にのせるのが非常な苦痛であつたため、犯人の検挙を望まぬのではないが、検挙によつて、又もや、自分らが世間の話題をにぎわすのを避けたい気持であつたということも十分考えうるところである。最後に、原告が事件発生当時の模様につき供述することがきわめて不合理で「貫性がなかつた旨の主張についてであるが、被告の挙示する(証拠省略)は何ら被告のの右主張に関係のない証拠であるし、事件直後の原告の供述が終始一貫し何ら不合理ではないことは、前記認定のとおりである。

右のとおり(証拠省略)から認定した前記(二)記載の事実に反し、又はこれに含まれない被告の主張事実はいずれも採用できず、右乙号各証を通じて右認定を動かすに足る証拠はない。

前記乙号各証からはさらに次のことが明らかである。

1、右証拠から強いて原告の犯行動機となり得るものを探せば、藤川幸世との不倫関係と辰子のヒステリーであるが、これらの事情も辰子を殺害し、自らも顔面に重傷を加えるには余りに動機として薄弱にすぎる感を否めないこと。

2、原告が犯人であるとすれば、本件は当然周到な計画にもとづいてなされるべき事件であるのに、犯行の方法や創傷の部位、或いは屋内に金品物色を仮装した跡がないことなどに不合理な点が多いこと。

3、原告は事件当日の昭和二四年九月四日に作成された警察官に対する供述調書(証拠省略)において、「頭に一撃を加えられ、目をあけることも声を出すことも十分できなかつたので、足で床を盛んにたたいて隣室の妻子に知らせようとした」旨の供述をなし、その後の供述調書(証拠省略)でも同趣旨を述べているが、これは、隣室で寝ていた潤子の「被害をうける直前、どんどんという音と共に家の中が上下動の地震のように震動したので目をさました」旨の供述(証拠省略)とまことによく一致していること。

4、原告が犯人であるとすれば、犯行直後負傷をおして辰子の介抱をし、その安否を気遣つて周囲の目を欺こうとするのが原告の態度としてむしろ自然と考えられること。

5、原告が犯人であるとすれば、前記認定事実からして、使用した兇器(日本刀様のもの)を十分に隠匿するだけの時間的余裕がないと思われるのに、警察の必死の捜索にもかかわらず、ついにこれを発見できなかつたこと(証拠省略)。

以上のとおり、原告の自白を除いた(証拠省略)から認定の可能な事実で、本件犯行と原告との結びつきに関連するものは、ほぼ右(三)において認定した事実に限られるといつてもよい。そして、右事実から合理的に考えれば、原告の本件犯行についての嫌疑はきわめて薄弱で殆んどないに近いといわねばならない。

(四)、そうすると、本件起訴にあたつて、中根検事が判断の資料にしたと被告において主張する右各証拠を合理的に判断すれば、原告に対する嫌疑はきわめて薄弱で、検察官としては、到底、右事件につき有罪判決を期待できないものと考えられるから、中根検事の右起訴は本来起訴すべからざるものを起訴した違法があるといわざるをえない。

(五)、そして、右に認定したところから、中根検事は、本件起訴の判断をなすさいし、検察官としての職務上の注意義務に違背したものと考えられるから、公権力の行使に当る公務員として職務を行うにつき過失があつたものといわなければならない。

三、以上のとおりであるから、右逮捕、勾留及び起訴によつて原告が蒙つた損害については、被告は国家賠償法第一条により、原告に対しこれを賠償すべき義務があることになる。

第三、原告の蒙つた損害(省略)。

第四、被告の時効の抗弁について

一、本件記録上、本訴提起の日が昭和三二年七月四日であることが明らかであるところ、被告は、本件不法行為による損害賠償請求権の消滅時効の起算点は、刑事判決言渡のあつた昭和二九年六月二八日であるから、右訴提起時には時効が完成していると主張するので判断する。

まず検察官の違法起訴を理由とするものについてであるが、相当の嫌疑なしにされた起訴といえどもその後の立証活動により結局その者の有罪が認定されるならば、起訴の違法は問題とならないから、この意味で、起訴の違法は無罪判決(その他有罪以外の裁判の多くも同様)がなされてはじめて判明するものといわねばならない。そして、民法第七二四条にいう「損害を知る」ことの中には行為の違法性を知ることが前提とされているものと解されるから、原告は、本件刑事無罪判決により始めて損害を知つたことになるものと考えられる。又、被告は、原告が無罪判決の言渡により右の意味での損害を知つたものと主張するが、判決が言渡されただけで未確定の間は、上訴による内容変更の可能性を内蔵しており、右の意味での損害を確定的に知つたことにならないから、やはり判決確定時をもつて、消滅時効の起算点と解すべきである。そして、本件刑事判決の確定時期が昭和二九年七月一三日であることは当事者間に争いがないから、本訴提起時には未だ三年の時効期間が経過していないことが明らかである。

次に、逮捕、勾留の適否は、起訴と異りその者が判決により有罪、無罪のいずれに認定されるかにかかわりなく、逮捕、勾留の時点において、決定の要件である「罪を犯したことを疑うに足りる相当の理由」が証拠上存しなかつたと認められる限り、その逮捕、勾留は違法と評価されるべきである。従つて、逮捕、勾留の違法であることを知るためには、それがいかなる資料に基づいて請求され、かつ、その裁判がなされたかを知らねばならないのである。しかるに、被告は、右の点につき原告がいつこれを知つたかを何ら主張立証しない。

従つて、被告の右時効の抗弁はいずれも採りえない。

二、次に、被告は原告の本訴請求拡張部分についての時効消滅を主張するので判断する。

原告が、本訴提起時においては、被告の公務員による不法行為に基づく損害数百万円のうち、損害発生の内分けを明示することなく、一三〇万円の賠償を請求していたこと及び右損害賠償の請求額を拡張したのが昭和三五年八月二六日であることは記録上明らかである。右のように、債権の一部であることを明示してなした訴提起は、その一部についての時効中断の効果しか認められないから(最高裁昭和三四年二月二〇日判決参照)、前記刑事判決確定の日から三年以上経過した後になされた右請求拡張部分については既に消滅時効が完成しているものといわなければならない。そして、被告が本訴第一四回準備手続期日においてこれを採用したことは記録上明らかである。

第五、結論

以上のとおりであるから、原告の本訴請求は、消滅時効にかからない拡張前の請求一三〇万円の支払と、これに対する不法行為ののちで本件訴状送達の日の翌日であること記録上明らかな昭和三二年七月一三日から支払済まで民事法定利率の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で、理由があり、その余の請求は理由がない。よつて、右の限度で原告の本訴請求を正当として認容し、右限度を超える部分は失当として棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九五条、第八九条、第九二条、仮執行宣言につき同法第一九六条第一項を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 高橋正之 荒木恒平 坂元和夫)

取調時間表、公訴事実(省略)

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